【アインシュタインという人物】アインシュタインとはどんな人?~天才の生涯③

Pocket

前回のブログでは、アインシュタインの特許局時代に論文を発表したところまでをお伝えしました。

それが、後の「特殊相対性理論」となる論文です。

アインシュタインの教授時代

アインシュタインの科学者としての名が世界中に広まってくると、大学は彼の事を放っておかなくなりました。

そこで、アインシュタインは、ベルン大学の私講師の職に応募してみたところ、すんなりと通ったといいます。

しばらくは特許局とベルン大学の私講師をかけもちしていましたが、やがて1909年、アインシュタインが30歳の時、正式にチューリッヒ大学の助教授になる事ができました。

人は、才能があるのに認められないと生意気になりますが、認められると謙虚になります。

当時のアインシュタインは、生徒から慕われる、良き教授でした。

彼の授業は、理論を押し付けるものではなく、生徒が興味を持ったものを分かりやすく教えてくれるものでした。

アインシュタインは、複数の大学からヘッドハンティングされ、引っ張りだこの日々だったといいます。

特殊相対性理論に足りなかったものとは

1905年に発表した「特殊相対性理論」には弱点がありました。

①等速直線運動をしている物体のみ適用する

②重力がある場合には適用されない

③物体のスピードや方向が変わると適用外となる。

 

上記のような「特殊」な場合にのみ適用するのです。

しかし、日常的に言うと、等速直線運動している物体なんてそうそうありません。

一般的な場合にも通用するような理論を考えなくてはなりません。

それが、「一般相対性理論」です。

アインシュタインによって、1915年から1916年にかけて論文が発表されました。

アインシュタインが36歳の時です。

 

当時のアインシュタインの名言があります。

「私が科学に没頭するのは、日常の生活の苦痛から逃れる為です。」




賞金首になったアインシュタイン

有名になったアインシュタインは、祖国のドイツとアメリカとの間を行ったり来たりして過ごしていました。

しかしその頃、第一次世界大戦で負けた余波で、ドイツは深刻な状況に陥っていました。

失業者があふれ、人々は将来に希望が見えなくなり不安の日々を送っていました。

そんなところへ、救世主と名乗る「ヒトラー」が現れたのです。

ヒトラーはこの不況の原因がユダヤ人であるとし、ユダヤ人を迫害し始めました。

そして1933年、ナチスが政権を奪い、ヒトラーはアインシュタインの名ををブラックリストのトップに挙げ、その首に賞金をかけました。

アインシュタインは妻や友人や住み慣れた街との別れを悲しんだ事でしょう。

原子爆弾の開発

1938年、ドイツの科学者のオットー・ハーンは、研究中に偶然奇妙な現象を発見しました。

ウラン235に中性子をぶつけると、ウラン236が出来ます。

しかしウラン236は非常に不安定なので、すぐに崩壊し原子核が分裂を起こします。

その結果、クリプトンやバリウムが生成されます。

その「ウラン236」と「核分裂後に生成されたクリプトンとバリウム」を比べると、核分裂の前と後では、0.1%だけ重さが軽くなっていたのでした。

その0.1%の重さは、果たしてどこに消えたのでしょうか。

ハーンはすぐに答えがわかったそうです。

アインシュタインの「E=MC2」の式にならって、0.1%はエネルギーに変化したのです。

これは、後に原子爆弾となり、第2次世界大戦で広島に落とされる事となりました。

 

このニュースを秘書から聞いたアインシュタインは、言葉を失い、激しい自責の念にかられたといいます。

 

アインシュタインの名言として残っています。

「第3次世界大戦がどんなものになるかは分かりませんが、第4次世界大戦なら分かります。石とこん棒が武器になるでしょう。」

スポンサードリンク






 

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です